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戦国武将・真田幸村(真田信繁)についてのあれこれ情報

真田幸村が「日本一の兵」と呼ばれる理由と意外な人との関係

炎

真田幸村といえば「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」をイメージする人が多いでしょう。

しかし真田幸村の戦いの記録を見ていくと、勇猛果敢に戦っているものの、その多くが敗戦に終わっています。

敗軍の将である真田幸村が、なぜ「日本一の兵」と呼ばれるようになったのでしょうか。

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「日の本一の兵」と呼んだのは誰?その意味は?

真田幸村を「日の本一の兵」と呼んだのは、薩摩藩初代藩主である島津忠恒(しまづただつね)という人物が最初だと言われています。

巻物

島津忠恒が書いた手紙には、「大坂の陣」で大坂側に味方し活躍した真田幸村のことが、次のように記されています。

”真田日本一の兵、古(いにしへ)よりの物語にもこれなき由”

現代の言葉で、「真田は日本一の武士であり、古くより伝わる物語にもこれに匹敵するものはない」という意味が込められています。

島津忠恒は実際に「真田幸村の勇姿」を見ていない!?

実はこの島津忠恒、「大坂の陣」へ参加しようとしていたものの間に合わず、戦自体には参加できていません。

藩主として幕府(徳川方)に逆らうことが出来ずにいた島津忠恒は、徳川の敵である大坂方からの助力要請を断っていました。

困る

そんな島津忠恒が、なぜ真田幸村のことを「日本一の兵」と記したのか。

それは島津忠恒に”反・徳川”の気持ちが少なからずあったのではないかと考えられます。

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島津忠恒はなぜ「日本一の兵」と言ったのか

島津忠恒は徳川方にも兵を出さなかったため、幕府から「大坂方に寝返ったのではないか」と疑われてしまいます。
その疑いを晴らすために出兵しましたが、本意ではなかった可能性が考えられます。

そんな自分の状況と照らし合わせて、正面から徳川と戦う真田幸村に共鳴した所があったのかもしれません。

キラキラ

そのことから、戦での強さという意味ではなく、武士として、一人の男として真田幸村のことを「日本一の兵」と記したのではないでしょうか。

真田幸村の大舞台!「大坂夏の陣」で見せた最後の勇姿

最後に

島津忠恒が記した「真田日本一の兵」という言葉は、世間に大きく広まることになります。

それは当時、時の権力者に対抗する”庶民のヒーロー”的な存在となっていた真田幸村のイメージに、ぴったりと当てはまったのかもしれません^^

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      2016/04/09


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