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真田幸村の才能を見抜いた上杉景勝!恐怖支配とおもしろ逸話

龍

“越後の龍”としてその名を戦国の世に馳せていた名将・上杉謙信(うえすぎけんしん)
その養子のひとりが上杉景勝(うえすぎかげかつ)です。

同じく養子であった上杉影虎(うえすぎかげとら)を滅ぼし、上杉家を継いだ人物としても有名です。

今回は、若き真田幸村の才能を見抜いたとされる「上杉景勝」についてご紹介しましょう。

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「関ヶ原の戦い」のきっかけは上杉景勝だった!

“五大老(ごたいろう)”のひとりとして豊臣政権を支えていた上杉景勝は、豊臣秀吉が没したあと、勢力を伸ばしていた徳川家康と敵対します。

徳川に恭順する姿勢を見せなかったため、城の補修をしていたところを「軍備増強」「戦の準備」だと追及されます。
しかし上杉景勝はそれを弁明せず逆に相手を挑発したため、徳川家康によって討伐されそうになります。

これがきっかけとなり、天下分け目の戦「関ヶ原の戦い」が勃発したのです。

ちゃんばら

景勝は、上杉謙信に比べて陰が薄く、家臣である直江兼継(なおえかねつぐ)の影にも隠れてしまっている感があります。
しかし直江兼継を若くして登用しているなど、人を見る能力に長けていたといえるでしょう。

真田幸村が恩人・直江兼続から受けた大きな影響とは

“若き真田幸村の才能”も見抜いた上杉景勝の能力

上杉景勝は、徳川家に領地を脅かされていた真田家に助けを求められます。
それに伴い真田幸村が人質として送られてくると、「人質」という扱いではなく「客将」として迎えています。

当時二十歳にも満たない若武者であった真田幸村の才能を見抜き、武将として迎えたとも言われています。

武士

その後、真田幸村は上杉景勝の不在のときに上杉家を出され、豊臣秀吉の下に人質として送られます

それを受けて上杉景勝は、豊臣秀吉に「真田の次男坊を上杉に返して欲しい」と願い出ています。
しかし豊臣秀吉も才能を見抜いていたのか、その願い出を拒否し、真田幸村を可愛がったとされています。

若い才能を見抜いた者同士で、真田幸村を取り合いになったともいえる場面ですね。

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上杉景勝がとった“恐怖支配”とおもしろい逸話

景勝は「家臣のカリスマ的存在であった上杉謙信」に比べ、自身に謙信ほどのカリスマ性がないことを自覚していました。

そのため、上杉謙信の跡を継いだあと家臣をまとめるために選んだ手段が、“恐怖”によって支配する手法です。

眉間には常にしわが刻まれており、家臣は景勝に謁見(えっけん)する際に恐怖したと伝わっています。

怒る

そんな景勝を示すおもしろい逸話があります。

あるとき景勝一行が川を渡ろうと船に乗りこんだところ、人数が多すぎたため船が不安定になってしまいます。

すると景勝がすっと扇子を空にかざします。
それを見た家臣達は、「船を降りろという景勝様の合図に違いない」とあわてて川に飛び込み、船には景勝と船頭しか残らなかったといいます。

扇子をかざした本当の意図はわかりませんが、家臣がそれほど上杉景勝のことを恐れていたということが伝わってくる逸話ですね。

ほかにもこんな逸話が・・・

上杉景勝は猿を飼っており、ある日、その猿が家臣に指示を出す景勝の真似をした姿を見て笑顔になったのだそうです。

猿

それは家臣が見た上杉景勝の唯一の笑顔だったといわれています。

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