さなコレ

戦国武将・真田幸村(真田信繁)についてのあれこれ情報

真田幸村の父は偉大だった!名将と呼ばれた真田昌幸とは

銅像

真田幸村の父・真田昌幸(さなだまさゆき)
一般的な知名度はそれほど高くありませんが、戦国ファンの間では名だたる名将として知られています。

今回は真田幸村の父であり、名将と謳われた「真田昌幸」についてご紹介しましょう。

<スポンサーリンク>

武田信玄が認めるほどの実力を持っていた!

真田昌幸は真田家の三男として生まれました。
幼い頃から「人質」として武田家に送られていましたが、その才能を見抜いた武田信玄によって近習(きんじゅ)*とされ、武田一門である武藤家へ養子として入ることになります。
*近習(きんじゅ)・・・主君のそば近くに仕える役。

その後、真田家を継いでからも知略によって器用に立ち回り、巨大勢力に挟まれた真田家の存続を何度も図っています。
また戦での勇名も高く、知勇に長けた名将でした。

武田家の優秀な家臣「武田二十四将」に選ばれている!

真田昌幸は「武田二十四将」の一人としても知られています。

武田二十四将(たけだにじゅうししょう、たけだにじゅうよんしょう)は、武田信玄に仕えた武将のうち、後世に講談や軍記などで一般的な評価が特に高い24人をさして呼ばれるようになった武田家家臣団の呼称。
出典:Wikipedia

本

当時はまだ「武田二十四将」という呼称は存在しておらず、後年になって武田信玄ゆかりの名将たちをそのように呼ぶようになりました。

真田昌幸はその中の一人に選ばれており、かの武田信玄から「我が両目の如く」と評されるほど、優秀な家臣として一目置かれていたのです。

<スポンサーリンク>

実力と才能に恵まれながら不運だった真田昌幸

真田昌幸の生涯を見ると、終始、真田家存続のために奔走していたように思われます。

真田昌幸が生きた時代、真田家の周囲には「武田」「織田」「上杉」と三大勢力がひしめき合っていました。当時、弱小勢力であった真田家を守るためには、巨大勢力の下に尽くしか道は残されていなかったのです。

武士

忠誠の証として息子を「人質」として差し出すのも束の間、別の勢力に主君を倒されてしまいます。
そういったことが運悪く度重なり、「次から次に主君を変える真田は信用ならない奴だ」と噂されることもあったと言います。

それでも真田昌幸はいつか天下を獲るという野望を持ち、機会が来るのを狙っていました。

やがて「関ヶ原の戦い」で敗れ、息子の幸村とともに長い幽閉生活を強いられることになります。
真田昌幸は何度も徳川家康に許しを乞いますが、その願いが叶わぬと悟り、最期は失意のなか64歳で息を引き取りました。

最後に

確かな実力と才能に恵まれ、当時から名将と名高い真田昌幸。生まれる時代や場所が違っていたら、もしかすると天下を獲ることがあったのかもしれません。
それだけに、幽閉中に寂しく息を引き取った最期を想像すると残念でなりません。

幸村は、名将である父から多くを学んでいたことでしょう。幸村が築きその戦略が有名になった「真田丸(さなだまる)」も、真田家独特の戦法だったと言います。

真田幸村が築いた「真田丸」は弱点を補うためのものだった!

また真田昌幸から幸村に贈られた兜が現代も伝わっており、父・昌幸もまた、幸村に武人としての活躍を願っていたに違いありません。

真田幸村の兜に鹿の角がつけられた意味、本物の所蔵場所は?

<スポンサーリンク>

      2016/04/09


戦国ブログランキング参加中!
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

この記事にコメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

ページトップ