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真田幸村の大舞台!「大坂夏の陣」で見せた最後の勇姿

草原

真田幸村の今日伝わる勇名は、大阪夏の陣での姿によるものといっても過言ではありません。
今回は、真田幸村が最後に戦ったとされる「大坂夏の陣」についてご紹介しましょう。

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「大坂夏の陣」の前に起きた「冬の陣」

先に勃発した「大阪冬の陣」で、真田幸村が味方する豊臣軍は“籠城(ろうじょう)戦”で徳川軍に対抗しました。
攻め手の徳川軍は、真田丸(さなだまる)をはじめとした抵抗に決め手を欠いていました。

真田幸村は大活躍した「大坂冬の陣」で発言権がなかった!?

真田幸村が築いた「真田丸」は弱点を補うためのものだった!

大砲

そこで徳川家康は、当時最先端の長距離砲を使用し、一方的に大坂城を砲撃し続けたのです。
大坂城にも大砲が配備されていましたが、射程で劣っていました。

日々降り注ぐ砲弾に脅え続け、ついに耐え切れなくなった豊臣軍は徳川と和睦し、「大阪冬の陣」は終結しました。

丸裸にされた大阪城

和睦の条件として、徳川家康は「大坂城の外堀」と「真田丸」の破壊をつきつけました。

「外堀」は大坂城を”無敵の要塞”と化している大きな要素の一つであり、それを失った大坂城は丸裸になることになりました。
さらに徳川軍を苦しめた真田丸をも失い、大坂城は戦う能力の多くを奪われてしまいました。

城

それからまもなく徳川家康は再び軍を率い、大阪へ攻め寄ります。

先述の通り大坂城には戦う力がなく、そして敵となる徳川の力はもはや誰も逆らうことが出来ない程、絶大なものになっていました。
こうして「大坂夏の陣」が開戦したのです。

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「大坂夏の陣」で苦戦を強いられた真田幸村

このとき冬の陣での活躍から、真田幸村は豊臣軍の中心人物の一人となっており、他の将との連携を取れるようになっていました。

豊臣軍は冬の陣とは異なる“野戦”を選択しますが、徳川軍に劣勢を強いられます。

大坂夏の陣・主要武将配置図

前線で窮地に陥った後藤又兵衛(ごとうまたべえ)らを救うべく真田幸村は救援に向かいますが、濃霧に苦しめられ到着が遅れてしまいます。
結果的に豊臣軍は貴重な戦力を失い、撤退を余儀なくされました

大坂の陣で真田幸村のよき理解者だった猛将・後藤又兵衛とは

真田幸村は殿(しんがり)という、味方の最後尾で追っ手を討つ危険な役目を全うし、味方の撤退を成功させたと言われています。

家康を危機に陥れた真田幸村の突撃

やがて豊臣軍にはわずかな戦力しか残されておらず、「もはや奇襲によって徳川家康を討つしかない」という決断にいたります。

真田幸村はこの奇襲隊に加わります。
部隊の装備を赤で揃えた「真田赤備え」隊を編成、諸将と連携して家康本陣への突撃を敢行します。

突撃を受けた徳川家康は、自ら死を覚悟したほどで「俺はしぬ俺はしぬ」と酷く狼狽したと言います。

甲冑,鎧,十文字槍

しかし多勢に無勢、奇襲隊は敵に包囲され殲滅(せんめつ)させられてしまい、ついに真田幸村も討ち取られてしまいます。

この戦いの様子を知った人々により、真田幸村はのちに「日本一の兵」と評されるようになっていくのです。

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      2016/04/23


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