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戦国武将・真田幸村(真田信繁)についてのあれこれ情報

真田幸村は大活躍した「大坂冬の陣」で発言権がなかった!?

冬

真田幸村の勇名が一躍広まった戦が「大坂冬の陣」です。
これは緊張関係であった「豊臣家」と「徳川家」の間で勃発した大戦です。

今回は、真田幸村を語る上で欠かせない「大坂冬の陣」についてご紹介しましょう。

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なぜ「大坂冬の陣」が起こったのか

「大坂冬の陣」のきっかけと言われているのが、故・豊臣秀吉ゆかりの寺「方広寺(ほうこうじ)」です。

方広寺は大地震で倒壊したままになっていましたが、徳川家の支援もあり豊臣家主導で再建されました。
しかし、そこに安置される鐘に刻まれた文字に問題がありました。

鐘

国家安康」「君臣豊楽」という文字が問題になった部分です。

”国家の安泰と、君主とその臣下の富と幸を願う”という意味が込められていたようですが、徳川はこれを

「家康の作る世を蔑み、徳川ではなく豊臣の世を謳歌しようという呪いの句」

と捉えてしまい、これをきっかけに両家の関係は悪化、それが発展し「大坂冬の陣」が勃発したのです。

徳川からの「信州一国」の報酬を蹴った真田幸村

当時、真田幸村は九度山に幽閉中でしたが、豊臣から誘いを受け豊臣側として「大坂冬の陣」に参戦することになります。

同時期に、徳川家康からも信州一国を与えるという条件で誘いがありましたが、「一国で心変わりする幸村だと思っているのか」と拒絶しています。

小判

豊臣からは100万石の大名にするという約束を受けていたともされていますが、当時の豊臣の力は秀吉の頃とは比べ物にならないほどに衰退していました。
豊臣から誘いを受けた真田幸村自身も、報酬はさほど期待していなかったのではないでしょうか。

あくまでも、世話になった豊臣への義を果たしたのではないかと考えられています。

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真田幸村は「大坂冬の陣」で発言権がなかった!?

大坂冬の陣のため「大坂城」に入った真田幸村の扱いは、あまり良いとは言えませんでした。
なぜなら、大坂城での発言権は「いかに多くの兵を連れてきたか」という点が重要だったからです。

数千単位で兵を引き連れてきた豊臣諸将と違い、真田幸村はわずかな家臣と金で雇った兵士達のみでした。

武士

「大坂城の防御には欠陥があるため、城から出て野戦をすべきだ」と真田幸村は提案します。

しかしわずかな手勢しか連れてきておらず、当時ほとんど無名で実績も皆無であった真田幸村の案は、相手にされませんでした。

大坂城の弱点を補う「真田丸」と主要武将配置図

「大坂冬の陣」では真田幸村の意見が退かれ、大坂城での籠城(ろうじょう)戦が繰り広げられることとなります。

真田幸村は、大坂城の防御の欠点を補うための出城真田丸(さなだまる)」を、城郭の一部に築きます。

大坂冬の陣・主要武将配置図 参考:「真田幸村と真田丸: 大坂の陣の虚像と実像」渡邊 大門(河出ブックス)

やがて大坂冬の陣がはじまると、徳川方の大軍が大坂城を包囲することになりますが、この真田丸を用いた真田幸村の活躍が一躍世に知れ渡ることになったのです。

真田幸村が築いた「真田丸」は弱点を補うためのものだった!

真田幸村の大舞台!「大坂夏の陣」で見せた最後の勇姿

最後に

自らの意見が通らないことに落胆しながらも、真田幸村は決して諦めることなく、不利な籠城戦で出来る限りの策を練って戦いに勝利しようとしていた様子が伝わってきますね。

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      2016/04/23


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