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戦国武将・真田幸村(真田信繁)についてのあれこれ情報

真田幸村が築いた「真田丸」は弱点を補うためのものだった!

注目

大河ドラマのタイトルに決定し、いま再注目されている真田丸(さなだまる)
真田丸とは一体どのような物だったのでしょうか。

今回は、真田幸村の代名詞ともいえる「真田丸」についてご紹介しましょう。

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「大阪城の弱点」を見抜いた真田幸村

真田丸は「大阪冬の陣」の直前、真田幸村によって築かれました。真田幸村が味方する豊臣軍が“籠城(ろうじょう)戦”へと方針を決めた直後のことです。

もともと真田幸村は不利な籠城戦ではなく、城の外に出て戦う“野戦”を訴えていました。
しかし実績もなく、わずかな手勢しか率いていなかった真田幸村の意見は軽視され、結果不採用となっていました。

真田幸村は大活躍した「大坂冬の陣」で発言権がなかった!?

大坂城は世界的に見ても、当時、最大規模の城郭です。
元々堅固な立地に、強固な城壁を備えた「最強の要塞」とも言えます。その巨大さは、従来の大砲の射程が城内に及ばないほどです。

城

しかしそんな大阪城にも、一部に守りの弱い場所がありました。

それを見抜いた真田幸村は、大坂城の守りが弱い場所に出城(本城の守りを固めるための城)を築きます。城壁からイボのように出っ張る形で作られ、後方には長い上り坂があったと言われています。

大坂冬の陣・主要武将配置図 参考:「真田幸村と真田丸: 大坂の陣の虚像と実像」渡邊 大門(河出ブックス)

この出城が、のちに「真田丸」と呼ばれることになります。

「真田丸」から繰り出される罠の数々

攻め手である徳川軍の前田勢は「真田丸」を包囲しますが、周囲に設置された銃眼から打ち下ろす形で射撃が加えられ、大きな損害を出します。

火縄銃

そこで今度は、真田丸の後方にある坂道から真田丸内部へ突入しようとしますが、それも罠のひとつだったのです。
坂の上から一斉射撃を加えられ、前田勢は崩壊します。

真田丸から繰り出されたこれらの手法は、真田幸村の父・昌幸(まさゆき)の戦略から大きな影響を受けているといわれています。

上田合戦で徳川の大軍に大勝利!真田幸村と父昌幸の活躍とは

この真田丸という計算された防衛施設に対し、徳川軍は非常に苦戦させられたのです。

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豊臣軍を震え上がらせた「大砲」の威力

真田丸への攻撃を断念した徳川軍は、最新式の長距離砲を用いて大坂城の本丸を砲撃するという方針に変更します。

当時の大砲の命中精度は低く、日々砲撃を繰り返しても数発の砲弾が城内に着弾する程度でした。

大砲

真田幸村の真田丸によって、豊臣軍に勝機が見え始めていたと言っても過言ではありません。
しかし、たった数発の着弾は豊臣の上層部を震え上がらせるのには十分でした。

前線で戦う諸将の意見に反し、豊臣軍の上層部は圧倒的不利な条件を飲んで和睦をしてしまったのです。

その後、真田丸はどうなったのか

「大坂冬の陣」の後、真田丸はいち早く破壊されます。
これは徳川家康が、真田幸村の戦略から生み出された真田丸を大きな脅威と感じたために他なりません。

そしてこの真田丸こそ、真田幸村の名が広く知られるようになった戦場なのです。

真田幸村の大舞台!「大坂夏の陣」で見せた最後の勇姿

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      2016/04/16


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Comment

  1. 匿名 より:

    スゲー

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